プロフィール

 

 

こんにちは!ご覧頂き、ありがとうございます。

こちらのページでは…

  • 簡単な経歴
  • 今まで歩んできた人生
  • こしろぐとは?
  • 今後について

などお話したいと思います。

 

簡単な経歴

まずは、私の簡単な経歴をご紹介いたします。

詳しく知りたい方は、下の”今まで歩んできた人生”見てください。

  • 1992年8月25日生まれ、A型
  • 父、母、兄と4人家族
  • 茨城県神栖市生まれ
  • 小学2年生〜高校3年生までサッカー部
  • 高校卒業後 地元の化学会社に就職
  • 東日本大震災の影響があり配属先変更
  • 千葉県市原市の工場へ配属、社員寮に入寮
  • 22歳、鬱病発症、退職
  • 23歳、東京移住、不動産会社に就職
  • 25歳、不動産会社退職
  • 田舎フリーランス養成講座in能登に参加
  • フリーライターとして活動

 

今まで歩んできた人生

先天性心疾患

1992年、茨城県神栖市という超田舎で生まれました。

先天性心疾患(生まれつき心臓に何らかの異常を伴う)で心房中隔欠損症という病気を患っていました。

症状として現れにくい病気で、幼児、小児期には、ほとんどまたは全く無症状で経過することが多い病気だったので、自分が病気を患っているという自覚は、全くありませんでした。

幼児期の思い出を振り返ると入院してた記憶が思い浮かびます。

家族でどこかに出掛けたこと、幼稚園での出来事等は何も覚えていませんが、5歳の頃に専門の子供病院に入院をして手術をした記憶は鮮明に覚えています。

  • 寝れなくて泣いていたこと
  • 両親が片道3時間かけて看病してくれたこと
  • スイカ味の麻酔を選んだこと
  • 隣のベットで同じく心臓病を患っていた女の子の存在
  • 不味い病院食

今でも鮮明に思い浮かびます。

手術は無事成功しましたが、学校や会社の心電図の検査をすると必ず引っかかります。
問題はないのですが都度お医者さんに説明したり、お風呂に入った際、眼に映る大きな手術痕が、あの時の記憶を忘れないようにしていると感じます。

オタク気質なサッカー少年

先天性の心疾患の事もあり、手術後とはいえ両親は僕が運動することに対して、不安を覚えていたかと思います。

しかし不安とは裏腹に小学2年生からサッカーをはじめ熱中し、学校行事のマラソン大会では常に上位の成績を納め、人並み以上に運動に対して積極的に取り組んでいました。

学校の駅伝メンバーにも選ばれ半ば強制的に学校が終わってからも走らされていました。
走るのは嫌いだったので、コースをショートカットしたり、途中隠れていたり自分なりに抵抗してた記憶があります。

僕は運動が好きな訳ではなく、サッカーというスポーツが好きな人間だったので、サッカーをしている時以外は自宅でゲームをしたり、おもちゃで遊んだりしているのが好きなインドア体質な子供でした。

ゲームボーイプレステ64にハマって何時間もゲームをしている時期もありましたが、小学4年生の頃に自宅にパソコンがきてからはネットの空間にハマり一日中「2ちゃんねる」「もなちゃと」というチャットをしていました。モニターに前のめりになって操作をしていたので確実にこの時期に目が悪くなったと思います。

※2ちゃんねる掲示板から生まれたAA「モナー」

僕は人の目を凄く気にするタイプで思った事を素直に口に出せない性格だったので、学校の友達と過ごす時間より、ネットを通して顔も名前も知らない人達とコミュニケーションをしている時間の方がありのままの自分で居られる事ができて、凄く居心地が良かったです。

サッカーをやってたことで、たまに勘違いされますが僕はとても内向的な人間です。ワイワイガヤガヤがとても苦手で、集団だと黙ります。

小、中とサッカーとネットに熱中しながら、地元のサッカーが強い高校に進学しましたが、高校3年生になる直前、膝を怪我して入院、手術をしましたが間に合わず、3年時は結局部活に参加することはできないまま不完全燃焼のサッカー人生を送りました。

後悔が沢山あるからこそ、サッカーは今でも変わらず大好きで欧州サッカーを見ている時が、唯一叫ぶほど感情移入する事ができる時間です。

おそらく僕はサッカーをやっていなかったらコミュ障の引きこもりのオタクになっていたと思います。

窮屈だった学校生活の中で身につけた主体性

僕には二学年上の兄がいます。小学校・中学校は一緒だったので先生に、よく比較されました。

兄は学年で一番足が早く、野球では全国大会にも出場しており、習字や絵画等、文化的な分野でも金賞を取り、行事事にも積極的でクラスの中心として学級委員を務める、絵に描いたような優秀な生徒でした。

一方の僕は足が早いといっても一番ではなく、サッカーでも大きな結果を残せず、文化的な分野に関しては課題すらまとめに提出しない、行事事には消極的、クラスの中でも目立つタイプではなく、先生からは何を考えているのかわからない面倒な生徒という扱いでした。

進路相談、家庭訪問の時の話題も兄の話ばかり、毎度両親が怒っていたのが印象に残ってます。

しかし先生が鬱陶しいという事と、反抗期がうまく重なり、反抗意識から芽生える自我の形成が上手く整ったと思います。

学校の意見、先生の意見を信用していないからこそ、自分で考えるという事を身につける事ができたのです。

両親も何かを強制させる親ではなく、子供の意見を第一に考えサポートしてくれる両親だったので学校生活、私生活どちらにおいても主体性を身につける環境は整っていました。

そして自由な校風をもつ高校に進んだ事で良い意味でも、悪い意味でも主体性というものは加速しました。

当たり前に送る学校生活が意味のないものだと感じた僕は自分のペースで学校生活を送ろうと、当然のように遅刻をしたり、帰りたいと思ったら途中で帰り、授業中、ずっとゲームをしたり友達と喋ったりしている生徒でした。

唯一数学だけは好きで授業をしっかり受けてテストもちゃんと受けていました。100点が取れなかったら悔しがって一人で復習するぐらい好きでした。

この学校の凄いところは、殆ど怒られないという事です。正直先生としての仕事を真っ当していない人ばかりです。笑

釈由美子はウンコをするのかどうかで、先生と話し合いになり授業がそのまま終わった事もありました。

本当に意味不明で父兄からの評価が低い学校でしたが、何が好きで、何が嫌いか、自分の頭で考え、意味がないと思ったことはとことん省いていく。そんな考え方を身につけさせてくれた高校生活でした。

尊敬できる上司との出会い

高校時代ろくに勉強もせずに自由に生きてきた僕は将来の事を何も考えておらず、大学に行ってまで勉強をしたくないという思いと、兄の大学費用で一杯一杯だった実家での生活を考えると就職以外の選択は考えられませんでした。

「テキトーに就職すればいいや」という気持ちで、テキトーに企業を選び面接の練習も一切せず、なんとなく受けたら合格しました。

僕の地元は工業地帯で有名企業が地元の高校生をたくさん採用していたので就職氷河期どころか、正直誰でも就職できるくらいの雰囲気でした。ちなみに僕が就職した企業も上場企業で福利厚生が凄く整っていました。

2011年3月に東日本大震災があり、配属予定だった地元の工場が壊れ、急遽千葉工場に配属が変更されます。

実家から通う予定だった僕は千葉の社員寮で一人暮らしをすることになりました。

バイトもしたことがなかった僕にとって人生初めての仕事、初めての給料、初めての一人暮らしは刺激のある、とても充実した時間となっていきました。

仕事に関しては言われた事を素直に行うのではなく、この作業に何の意味があるのか考えた上で作業をしていました。
自分の頭で考え、徹底的に効率化した仕事を行う事で人よりも少ない量で早く仕事をこなすこと出来る。本当に楽しくて、入社2年前後は仕事に熱中していました。

僕の教育係になってくれた方がとても尊敬できる上司で、今までそれなりに沢山の人に出会ってきましたが、この人以上に仕事が出来る人と出会った事はありません。

業務の全体構造を理解した上で、一つ一つ考えて作業をするという事。

ミクロマクロの視点を高速で切り替えられる人でした。

マニュアル通りにこなす仕事にやりがいがないのは当然で、もっと上手くできる方法はないか自分の頭で考える。
仮説を立て、実践し、試行錯誤を繰り返す。そんな能動的なプロセスの中で与えられた仕事は「作り出す仕事」に変わっていくのです。

社会人としての初めての上司がこの人で本当に良かったです。仕事に対する考え方を沢山学びました。

無知と挫折

最初は新生活が楽しかったのですが、徐々に何をしても満足せず楽しいと思えることがなくなっていきました。

20歳の時です。元々好きだった「RADWIMPS」の「白日」という曲を改めて聴き、絶望しました。
元から知っていた曲ではあったのですが、何をしても楽しくなかったあの時期に聞いた「白日」は自分を絶望に落とすきっかけになりました。

白日 歌詞 (一部抜粋)

いつも通りの道
長い助走をつけて
踏み出した一歩が
ある日着地することなく永遠にただ舞う
無数に舞う

たらい回された罪が僕の前で止まってる僕の瞳を見てる

誰かが奪った命が、誰かが奪ったものであるのなら生きているそれだけで罪なのか。

誰にも裁けないこの罪が今僕の目の前に止まって僕に問いかけている

東日本大震災という原子力発電所を巻き込んだ最悪の自然災害を迎えた僕達、人間の在り方とは。

自分は何のために生きているのだろうか…

東日本大震災の現状を知り、何かしないといけないと感じ早速、福島県にボランティアに行きました。

しかし自分ができることなんて被災者の方にとって一時的な幸せにすぎず微力でしかないことを痛感し、泣きながら帰宅しました。

それから頭の中から震災の記憶が消える日はありません。毎日寝る前に思い出しては無力さに絶望し一人で泣いていました。
正直忘れようと、自分には背負いきれないことだし割り切ることも必要だと思いましたが、できませんでした。

「お前もこの現実から目を背けるつもりなのか」と言われているような気がして逃げられませんでした。

自分の心の空白を埋めるため、一層遊びまくりました。音楽ライブに行ったり、たくさんの友達を作りパーティーにも行きました。居酒屋に行ったり、女の子と遊んだり。

しかし何をしても本当に楽しかったことはありません。心にぽっかりと空いた空虚を埋めるモノはどこにもありませんでした。

当時、悩みを相談する友達が僕にはいなかったので、夜中に車で実家に帰って両親に何度も相談していました。
「辛かったら会社は退職してもいいんだよ」と何度も言われましたが、無知だった僕は無職になることが相当リスクの高い事だと勝手に感じていたので、会社を退職するという選択は取れませんでした。

22歳になった頃、鬱病になり僕は自殺未遂を繰り返していました。ある出来事をきっかけに死んだらダメだと決意しましたが、身体的にも精神的にも仕事を続けられる状態ではなかったので会社を無断で抜け出し、退職しました。

不動産会社への就職

自宅に戻り身体的にも、精神的にも、とても苦しく絶望的な心境だった中、僕が一番に感じた事は「働きたい」という感情でした。

働いていれば、誰かと繋がり、社会とつながることができる。
そして働いていれば、自分が生きていることを実感し、人としての尊厳を取り戻すことができる。

自宅に戻り全てをリセットした僕は23歳の頃、上京して不動産の営業職に就くことになります。

今までは機械を相手に仕事をしていたので、如実に人間同士の関係性が業務に直結する営業職に憧れていました。

何故不動産だったかというと、就職活動中、新宿西口にいる占い師の方に、どの業界が合っているか占ってもらった際、「あなたは不動産か金融。不動産に行けば成功する。」と言われたので不動産業界を選択したという浅い理由です。

※占いは全く信じていませんが、決めるのが面倒だったので、この際、誰かに決めて貰おうという考えによるものです。

不動産の営業職は本当に楽しかったですし、目の前にいる「お客様」の為に一生懸命働く事にとてもやりがいを感じていました。

毎日朝8時から夜24時まで働いて、休みも当たり前のように出勤していたので週休0.5日ぐらいだった気がします。世間的にブラックだと思われるかもしれませんがブラックだと感じたことはありません。

社長は何でも許してくれる仏のような人だったので、与えられた業務以外の事も進んで取り組んでいきました。

一部の上司からは、面倒な奴だと思われていたかもしれませんが、主体性を持って働く事を誰よりも認めてくれた社長がいたからこそ、挑戦することができました。失敗する事も多々ありましたが怒られる事はなく、いつもフォローしてくれました。

僕は出会う人に本当に恵まれていると思います。

僕が担当していたエリアは都心だったので対応するお客様も富裕層が多く、多種多様な業界のお偉いさんや、フリーランスの方など、今までの生活では到底出会えることのなかった方達と出会い、仕事に対する向き合い方も変わっていきます。

環境が変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わり、人格が変われば人生が変わる。

上京し、不動産業界に足を踏み入れた事は、自分にとって凄く意味のある大切なターニングポイントとなりました。

仕事に生きる人生への憧れ

僕が憧れた人達は、主に実業家の人達です。

ビジネス本を沢山読むようになり、講演会に行ったり、オンライサロンに加入したりしました。

中でも大きく影響を受けた3人は

元ライブドア株式会社取締役社長 堀江貴文さん

株式会社幻冬舎取締役社長 見城徹さん

株式会社DDホールディングス代表取締役社長 松村厚久さん

「仕事に対する向き合い方、生きるということとは、言葉を獲得するということとは、努力とは」全てが驚愕でした。

こんな人間いるんだなと正直に感じました。

「お前はその程度で生きた気でいるのか」と言われているような感じがして、自分が如何に生ぬるい環境で生きてきたのかを実感しました。

戦わなければならない、苦しい方に舵を取らなければならない。言葉が沁みました。

自分と向き合った上で社会に対してどうアプローチするのか、仕事が好きな僕にとって一番の仕事とは何なのか。

気になった事にひたすらチャレンジした上で何が自分にとって大切か見極める為、何となく足を踏み入れた不動産業界から離れる事にしました。

田舎フリーランス養成所

不動産会社を退職し、まず僕が行った事はプログラミングの勉強です。

時代はITだろ!という事で3ヶ月ぐらい勉強をして、スキルはある程度身につきましたが、何の為にやっているのだろうか?という結論に至ります。

好きな事でもない。誰のためにやっているのかもわからない。次第にダラけきった生活になっていきました。

理由が明確ではないとモチベーションが上がらない。意気揚々と退職し新たな人生を歩む事を決めた僕の意志の弱さを痛感しました。

ビジネスに関する情報を知る事は好きで相変わらずオンラインサロンや講義に参加していたりしましたが、肝心の行動には至りません。

そんな時期にネット広告で田舎フリーランス養成講座(通称いなフリ)を知りました。

個人で稼ぐ手段を知っておくことは大事な事だと感じ参加する事にしました。

フリーランスとして活動したいという思いは、あまりありませんでした。あくまで手段の一つに過ぎないし、知っておくことは大事だな。程度です。

→1ヶ月のいなフリでの生活、心情を綴った記事はこちら

田舎フリーランス養成講座in能登を終えて

いなフリでは独立するためのスキル以上に、自分の人生と真剣に向き合う事の大切さ、似たような境遇を抱えながら切磋琢磨できる仲間と出会うという事の大切さを学びました。

環境が変われば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わり、人格が変われば人生が変わる。という事を改めて実感しました。

今までの人生で一番濃い1ヶ月だったと思います。

今はフリーのライターとして活動していますが、どこかのタイミングで確実に会社員に戻るか、起業するのか。会社に携わった働き方をすると思います。

自分が普通の人間であるという事を自覚しているので、互いの能力を補完し、一人では実現できない夢を、みんなで叶える事ができる会社という組織として社会と携わる人生を送りたいと思います。

やっぱり僕は会社が好きです。

大切なモノ、コト

家族というかけがけのない存在

僕にとって一番大事なモノは家族です。

決して裕福な家庭ではありませんでしたが、子供達の人生を一番に考え、行動していた両親の背中を見て育ちました。

洋服やバッグなど、両親が新たに私物を購入しているところを殆ど見た事がないです。

両親にとっての幸せについて聞いてみたことがあります。

「子供達が健康に生活しながら、休みの日にたまに実家に帰ってきてくれる時が幸せ。」

「大きい家に住む友達、毎年海外旅行に行く友達、色んな人がいるが羨ましいと思った事は一度もない。」

と言っていました。

本当にこの両親のもとに生まれてきて良かったです。

両親から充分すぎるほどの愛を与えられ育っていった僕は、お金だけではない物事の本質的な価値を見極められるようになりました。

もっと成長して一人前の人間として自立し、両親に対して親孝行していきたいと思います。

東日本大震災という消えない出来事

東日本大震災という大きな出来事は今後一生忘れることがない記憶として僕の心にあり続けるでしょう。

あらゆる物事に理由を求めてきた僕の口癖は「なんで?」でした。

世の中には因果で説明できない物事がいくつかあります。

自然災害によって亡くなった方が「なんで」亡くなったのか。何か悪いことをしたのか?

道を歩いていたら見ず知らずの人に刺された。亡くなられた方は何か悪いことをしたのか?

考えても答えが出ることは無い事です。

人は理不尽な物事に対して常識の範囲外に自分なりに納得できる理由を作っておかなければ、生きていけないのだと思います。

何故自分が生きていて、あの人達が亡くなったのだろう。

命の価値は図れるものではないけれど、僕よりも生きるべき人は居たと思う。

どう考えても納得できず、本当に意味がわからなかったです。

それでも僕は生きるべきで、罪こそ生きるべきだと感じます。

放射能に汚染された街は、僕が生きている間はおそらく浄化されないと思います。

そんなとてつもなく大きい出来事に対し、僕は今後どう関わっていくのか。

自分一人でどうこうできる問題ではないのだから忘れようと思ったことは何度もありました。

でも無理です。忘れようと思って忘れられる出来事ではありません。

僕にできることは、忘れないという事。

些細ではありますが、募金や被災地に訪れ、何かを購入するという事。

今の僕にできることは些細かもしれませんが、今後たくさんの事を経験して多角的な視点を持てるようになった僕は、東日本大震災のみならず社会問題に深く取り組んでいる事でしょう。

こしろぐとは?

こしろぐとは、25歳の現在無職の男性管理人がこれからの生き方を追求していくメディアです。

1992年生まれ、現在25歳になり会社を退職したことで不安や焦りはありますが、同様に期待と落ち着いて物事を判断する意識は持ち合わせています。

あなたは、10代の頃に描いていた未来と異なる日常を過ごしていませんか?

卒業文集を見返すと、とても興味深い中学2年生の時に抱いた人生プランが記載されていました。

61歳で死ぬことになっている…笑

当時、僕が思い描いていた20代は…

  • 主体性を持ち、芯のある自立した大人
  • 結婚して子供を授かり幸せな家庭
  • 会社に勤めバリバリのキャリアを突き進む優秀な会社員

こんな風になっていると思っていました。

 

でも、現在の自分と比較してみると…

  • 自分が何をやりたいのかはっきりしていない
  • 結婚を考える女性とは巡り合っておらず、結婚願望もなくなる
  • キャリア形成どころか、転職を繰り返している

当時思い描いていた自分とは、かなり差があります。

でも、今は自分らしく生きていると思います。むしろ会社を辞めて良かったと思っています。

テクノロジーの発展によりAIやブロックチェーンが騒がれている現代において、人間は人間らしく生きていく必要があります。

こしろぐでは・・・

  • 現代の働き方・仕事観について
  • 人間らしさとは
  • 刺激を受けた本の批評

など、発信していきます。

補足!
※8/1  とりあえず100記事書くまで、雑記ブログとして、ジャンル問わず書く事を意識していきます!

また、これまでに経験してきたこと、悩んだこと、感じたことなど、ありのまま発信していきます。
(サッカーやアイドルも好きなので、たまに記事に載せるかも。)

自分の思考を整理するためのアウトプットするツールのようなイメージです。

 

今後について

 

個人的な今後の野望を、ご紹介いたします!

  • 個人で月収20万円稼ぐ (2018年9月 12万円達成)
  • 会社を立ち上げる
  • スペインに行ってサッカーを観戦しに行く
  • たくさんの人に、こしろぐを読んでもらう

自分の人生を振り返り、後悔しない時間を過ごせるように突っ走って行きたいと思います。

お問い合わせ